読書記録『キュレーションの時代「つながり」の情報革命が始まる』『職業、ブックライター。毎月1冊10万字書く私の方法』

情報編集系の本をいくつか読んだ。 

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

 

 『キュレーションの時代「つながり」の情報革命が始まる』を読んだ。初版が出た頃に買って、そのまま積読していた。もう三年も経っている。ネットの進行スピードは速いのでここに書かれてあることは今となっては当たり前のこととなってしまったが、刊行された当初はおそらくかなり目新しかったと思う。

  社会に共通のイメージを与えていた既存のマスコミュニケーションの崩壊と、細分化された個人の趣味嗜好。そして個人による主体的な情報の発掘・編集についての話といったところだろうか。

つくり手は表現者であるのと同時に自分の作品がどのようにしていまの時代に受け入れられるのか、どこにその場を求めればいいのか、そしてどうプロモーションしていけばいいのかという、編集的ビジネス的センスまでもが求められています。つくり手であるのと同時に、キュレーターであり、エディターであり、プロデューサーであり、プロモーターでもなければならない。(p.237より引用) 

 有象無象の「コンテンツ」と、そのコンテンツに価値があるとみなされ、すくい上げられるための「コンテキスト」の関係が述べられている。キュレーターはそのすくい上げる人のことだ。

 私もまとめサイトなどのキュレーションサイトというのをだいぶ閲覧してきた。他人とつながっておくためのSNSのアカウントもある。ただ、私はこういったものはだいぶ飽きてきてしまった。当初は新鮮味があって、ひっきりなしに更新される情報をスマホで見ていたが、結局、テレビをダラダラと見ているのと変わらず、生活が困るほどの重要な情報もとくにないので、時間の無駄と考えるようになってきてしまったから。確かにフローな情報がフローデッド(洪水化)しているなかで、次々とテーマに沿って上手く情報をすくい上げてくれるキュレーターというのはありがたい存在ではあると思う。SNSによって知り合いがどこで何をしているか分かるのも面白かった。ただ、エンドレスに情報が出る状況で、する方も見る方も少しずつ疲れを感じ、いつかは飽きるのではないのかと思う。

 10年以上前の2000年頃は、専門性やリテラシーのある人が管理人となって、テーマを掘り下げたホームページを作り、そこで同好の士による交流が行われていたが、今はそういうのはあまり聞かない。当時隆盛していたアングラサイトの類も今はどこにあるか知らない。ネットがマニアやオタクのものから、一般の人のものになった証拠だと思う。今はたとえ情報が薄くても、他者とつながっていてリアルタイムであることの方(本書で著者は一期一会という言い方も用いている)が求められている。手間暇をかけてホームページで情報をパッケージ化することは流行らなくなってしまった。

 私個人としては「キュレーションの時代」以前の方が面白かったような気がする(こういうことを言うのは懐古癖があるみたいで嫌だが)。各種まとめサイトを見ても、どこも同じようなところに外部リンクしていて、結局、当たり障りのない同じような認識や価値を共有するという点では、これはこれで従来のマスコミュニケーションと変わらないのではないかと思う。

職業、ブックライター。 毎月1冊10万字書く私の方法

職業、ブックライター。 毎月1冊10万字書く私の方法

 

 『職業、ブックライター。毎月1冊10万字書く私の方法』。上記の本と対比させて読んだ。人に会って取材して、ライティングする人の話。こういう情報を足で稼いでパッケージするという考え方の方が私にはしっくりくる。

読書記録『「依存症」社会』『ネット依存症』

 依存症関連その2。新書ばかり。そろそろ専門書も読みたい。

「依存症」社会 (祥伝社新書330)

「依存症」社会 (祥伝社新書330)

 

 『「依存症」社会』は和田秀樹センセイの著書。パチンコ、オンラインゲームなど人々の依存症を食い物にするビジネスが日本ではあまりに多すぎることを指摘している。本の帯広告にも分かりやすく「依存症に依存する国」とある。どの本でも言及されているが、やはり日本はこういったものに対しての規制が甘いらしい。それから依存症に関する認知度も低く、あまり対処もとられていないらしい。

依存症は……健全な「時間消費」をも減少させていきます。つまり、依存している対象に大量の時間を費やしてしまい、本来やるべきこと、やらなければいけないことに時間を使えなくなるのです。(p.132より引用)

 これは自分も痛感している。依存する対象についてはどれも実質的には生産性のないものばかりである。著者はさらに、それは子供たちの平均学力の低下ひいては国力の低下まで引き起こすとしている。本書については社会と依存症の関係性について、こじつけのように感じる部分も一部あったが、おおむね著者の主張はその通りだと思えた。

ネット依存症 (PHP新書)

ネット依存症 (PHP新書)

 

 『ネット依存症』も併せて読んだ。上述の和田センセイの本には韓国では国を挙げてパチンコを禁止したことが書かれていたが、こちらの本でも同じく韓国ではいち早くネット依存症の社会的な認知がなされ、様々な対策がとられていることが書いてあった。韓国が国際競争力を高めるために早くからブロードバンドを国内に普及させたことは有名だが、同時に多くの社会問題も発生したらしい。なお日本においてもネット依存を巡る問題が浮き彫りになってきているが、具体的なカウンセリングを行っている病院などはまだまだ少ないという。

 ネット利用者の依存度を測る韓国の「K-スケール」が紹介されており、自分も測定してみたが、3番目に危険な「自己管理教育を進めるユーザー」に当てはまった。(ただし2番目の「カウンセリングが必要とされる潜在的リスクユーザー」とほぼ近いところだったが。)

 本書によると、どんな依存症も本人の自覚が治療の出発点らしい。そしてネットをいきなりスパッと止めるのではなく、それに割く時間を段階的に少しずつ減らして(記録にすると客観視できるのでいいらしい)、代替となる対象に時間を当てていく方法がいいとのこと。和田センセイが上述の本で簡単に紹介した、別の行為で依存症を回避するという森田療法に少し似ている。だいぶ以前に読んだ行動科学のことについて特集したビジネス雑誌には、ターゲット行動とライバル行動というのが紹介されていて、自分が増やしたかったり減らしたかったりする行動をターゲットとして定め、代わりにそれを妨げるライバル行動を増減させることで、ターゲット行動の方をコントロールする、ということが言われていた。要するに、本人の自覚のもと意図的に、依存している対象以外のことに時間をつぎ込んでいくといったところだろうか。

 オンラインゲームやSNSは、オフラインのときでも話が進行していたり、対人関係で返事をしないといけなかったりと、「終わりがない」状況でいちいち何が起きているか神経質になってしまい、ついついその中に取り込まれてしまうが、本来であればそれがなくても人間関係が無くなるわけでもないし、その中には緊急であるもの・重要であるものなんてほとんどない。そのことを踏まえた上で、自分自身の中に生まれる強迫観念を取り払い、勇気を持って電源をオフにしたい。そしてもっと生産的なことに取り組むのだ。

 

 ところで年賀状の返事をまだ書いていない。私に限らず誰であっても義務的に返さないといけないものは一枚や二枚はあるだろう。これがあるせいで正月は毎年憂鬱になる。コミュニケーション依存症というわけではないが、日常生活においてとりたくもないコミュニケーションをとらなければならないという強迫感は本当にストレスである。普段と違って休暇中だから一層そう感じるのであろうが。

読書記録『タモリ論』『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』

 大みそかは話題書を読んだ。

タモリ論 (新潮新書)

タモリ論 (新潮新書)

 

 『タモリ論』。私はテレビは見ない。いいとも!も見ない。でも筆力がある方なので、飽きさせない。

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

 

 『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』は堀江貴文氏の出所後の第一作となる。どんな本かと思えば、自己啓発書みたいな内容。刑務所に入ったわけでもないのに、何だかこっちが励まされるよう。

 色々とメディアに露出してたいそう有名な方ですが、実態として何をやっているかは事件当時も今もよく知らない。生い立ちなどの自伝的な要素もあるが、肝心なところはやはりよく分からなかった。しかし、そんなことは関係なく、面白い本であることには変わりない。

 こちらはタイトルが長い!『ネットがつながらなかったので仕方なく本を1000冊読んで考えた そしたら以外に訳に立った』。これも面白い。紹介されている本を何冊か読もうと思った。HONZの成毛眞氏との対談も収録されている。紹介されている本は50冊くらい。残りの950冊くらいは一体何を読んで刑務所暮らしをしていたのだろう。

 

 本を読み終わる頃、除夜の鐘が鳴った。近くの氏神様に参拝して、巫女さんからお神酒を頂いた。街にはまばらな人影があった。寒い夜だった。