読書記録『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』『花森安治の仕事』『灯をともす言葉』

 読売新聞の書評欄に花森安治の伝記が紹介されていた。その後書店で見つけたので買って読んだら面白かった。今週は立て続けに花森本ばかり読んでいた。

花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

 

 津野海太郎著『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』。花森安治の伝記。本書は彼の生涯について詳細に語っている。彼は戦争の時代は大政翼賛会の広報マンとして戦争を鼓舞し、戦後はというと、100万部雑誌『暮しの手帖』の創刊編集長として30年近くに渡り働いた。戦時中の有名なスローガン「欲しがりません 勝つまでは」や「ぜいたくは敵だ」は彼が書いたのだという噂もある(実際には応募されたものを、彼が選んだということらしい)。戦後、彼は空襲で荒廃した銀座に事務所を構え、『暮しの手帖』を大橋鎭子と創刊し、高度経済成長の時代の流れとともに部数を大きく伸ばしていった。中でも、商品テストという企画では、色んなメーカーの製品を一堂に集め、人的な方法で試験する。しつこく使い倒すのだ。トースターのテストでは食パン4万3千88枚を焼き、石油ストーブのテストでは火の点いたままのストーブを転倒させ燃え広がらないか調べる。これがすごい。公平かつシビアにテストし、見定める。企業の広告も載せない。そのため広告収入はないので雑誌の実売のみで売り上げを出す。何たる気迫。厳しい試験結果を書かれたメーカーからは、恨みつらみの文句を言われたという。しかし一方で日本製品に様々な改善改良のきっかけを与えたとも言われている。彼は戦争によって暮しを奪われたと語り(また、かの戦争に荷担した反省から反戦的な考え方にも傾倒し)、この『暮しの手帖』を通して、「企業」よりも「民」が主体の、日常の暮しをもっと大切にしようとうったえたのだった。 

花森安治の仕事

花森安治の仕事

 

 酒井寛著『花森安治の仕事』上記の本と重複するところ多し。こちらの方が先に刊行していて、かつ暮しの手帖社から出ているが、上記の本の方が細かいのでそちらで十分かもしれない。

灯をともす言葉

灯をともす言葉

 

 花森安治著『灯をともす言葉』。本人の言葉が集められている。美、国、暮し、ジャーナリズム、そして戦争などについて。 

 さて、自分はこれらの本を読むまで『暮しの手帖』がこのような雑誌だったということは知らなかった。ナチュラル系のガーリーなレシピ本というイメージしかなかった。花森安治もデザイナーか何かかと思っていた。戦時広報に携わっていたり、商品テストで消費者の立場から企業と真っ向から対峙したりしていたことは本当に驚きであった。出版実務においても執筆編集から装丁デザインまでして、怪物のような編集者である。昨今では、企業の提灯記事ばかりでカタログみたいな雑誌が多いような気が何となくするが(私が知らないだけでいい雑誌はたくさんあると思います)、ここまで読んできた中で思い知ったのは、『暮しの手帖』は職人的信念によって成り立っているということである。とにかく思い知らされた、といったところだ。

f:id:numatatadao:20140202161842j:plain

 これは昔、関係者の方からいただいたノベルティのノートブック。非売品だ。バックナンバーの表紙だろう。味わい深いデザインである。

 そういえば最新のen-taxi40号で岡田修一郎と福田和也が『暮しの手帖』をパロっている。花森没後も影響力のある雑誌ということだろう。※ちなみにこちらは送り仮名が「暮らし」である。

読書記録『ゴミ情報の海から宝石を見つけだす これからのソーシャルメディア航海術』

 津田本を読む。今月はブックライティングやキュレーションの本を読んでいるので、近いものがある。

 『ゴミ情報の海から宝石を見つけだす これからのソーシャルメディア航海術』。面白い。1時間で読了。読者からのQ&Aがためになった。個人としてのこれからのメディア戦略をどうしていくかということについて。

 著者は今でこそツイッターを活用したITジャーナリストということだが、もともとは雑誌のライターである。雑誌のライターはなかなか食えなくなったという。文化通信に掲載されていたABC協会の雑誌の販売部数調査を見ても軒並み数字が落ち込んでいる。残念ながらネットの方が勢いがあると言わざるを得ない。オピニオンリーダーなどの面白い人たちがこっちの方面へ流出している。単行本はというと、著名人のセルフブランディングの一道具になってしまっている感もある。

 私はツイッターは使いこなせなかった。流行る前からある程度普及した後までに、計4回アカウントを作って、その都度、続けるのが面倒臭くなって、結局毎回アカウントを消した。とにかく疲れてしまうのだ。なのでツイッターを上手に使いこなせている人には少し劣等感を感じる。

結局、テレビゲームにしてもCDにしても、ケータイが普及して、みんながメールをするようになったころから売れなくなってきたわけです。つまり「コンテンツがコミュニケーションに巻き取られる」という現象が起きているわけです。

暇つぶしにかけられるお金や時間は有限です。その有限な資源を、コンテンツとコミュニケーションが奪い合っているという状況なのでしょう。(p.41より引用) 

 さて本文からの引用だが、この「コンテンツがコミュニケーションに巻き取られる」という言い方は、もっとも直接的に現在の状況を指し示していて、舌を巻いた。昨今においては何の違和感もなく他人にメールを打ったりするわけだが、それらのコミュニケーションが暇つぶしになっているというのは、実は驚愕すべきことではないかと思う。便利に、気軽に他人といつでも連絡が取れるようになった半面、ある一面においてはかえって生活が不便になったような気がする。それが、この「コミュニケーションに巻き取られる」というやつだ。あのツイッターなどのとめどなく流れてくるフローな情報というのは、私にとってはとぐろを巻いてにじり寄ってくる大蛇のように思える。そして私をぎゅうぎゅうに縛り付けるのだ。私は最近ひどく疲れている。土日はケータイの電源は切っている。

  教育分野では将来的に道徳を教科化すると言われているが、そんなことよりもメディアリテラシーやネットモラルを学校教育できっちりやることの方が社会に出る上でははるかに実用的ではないかと思う。ネット分野は進歩が速いので、大人の方でも手探りの状態であるが、これを子どもが使いこなすというのはかなり大変だと思う。まだそんなに社会性の発達していない子どもたちが使ったりして、結構簡単に他人を傷つけたりするようなことがよくあるし、現にそれが社会問題化している。

 と、現代のネット社会について私は少し否定的な書き方をしてしまったが、本書はあくまでネットやソーシャルメディアを有効活用しようというスタンスで、初心者にも親切な書かれ方がしている。ネット疲れの対処法まで書いてくれている。とてもいい本である。

読書記録『わたしの彼氏』『街場の文体論』

 そういえば最近は文芸書を全然読まなくなっていたなあ。

わたしの彼氏

わたしの彼氏

 

 『わたしの彼氏』は青山七恵氏の作品。芥川賞を受賞した時から注目していて、結構好きな作家である。本書の発売後にすぐ買って、そのまま積読してあった。(発売日を見ると2011年3月11日となっている…。)

 主人公の鮎太郎はモテる。美男子なのだそうだ。恋愛小説や少女漫画って男の子がカッコいい。カッコよくないと恋愛が始まらないし話が進まないからだ。女流作家もぶっさいくな男なんてわざわざ描写したくないだろう。

 最初の方に出てくる、コドリさんという女性との絡みは面白かった。コドリさんは主人公の姉が自伝を執筆するのでその代筆をしに、自宅までバイトしにやって来るわけだが、そこで主人公とできてしまう。昼間は公民館で働いていて、一人暮らしの部屋に主人公が寝泊まりするようになる。しかし、酷いDV癖があって、主人公はベッドの上で痛めつけられる。

 このコドリさんとは長続きしないのだが、他にもジムで出会ったサッちゃんという女子高生と半同棲して、高額なネックレスを貢いだり逃げられたりと、彼はあまりいい恋愛はしない。

 もともと主人公には姉が3人もいて、いじめばかり受けて育っているなど、女性に囲まれることが多くても、女運についてはほとほと悪いようだ。

街場の文体論

街場の文体論

 

 『街場の文体論』神戸女学院大学の講義録。(しかも最終講義かよ。)内田樹の街場シリーズはいろいろ出ているが、自分に一番近そうかなと思い、この文体論を選んだ。が、文体論ではなかった。本人の興味関心や、教養的な話が断片的に続いている感じ。内田樹の講演会に行ったことがあるが、まさにこんな感じのとりとめのない話し方をする人であった。

僕は新聞に寄稿するときに、頻繁にトラブルを経験します。僕の使う言葉が「むずかしすぎる」というのです。漢字が多いし、外国語も多いから。「わからない単語があったら辞書を引く」という習慣をあなたがたは自社の新聞の読者には求めないのですか、と僕は憤然として反論することになります。(p.242から引用) 

  著者本人も自認しているようだが、本書を読んでいると、「講義で話すには、ちょっと書き言葉的な難しい言葉が多いよな」という気がした。枕元に置いてある小型辞典を途中で何回か引いて読んでいたが、「コロキアル」という言葉が出てきて、「何だこれは、コロニアルじゃないよな。辞書に載っていなさそうだな」と思っていたら、案の定小型辞書には載っていなかった。大辞林にも載っていない。仕方がないので、ネットで検索してみたら、関連語として出てくるキーワードが、内田樹ばかり。内田樹しか使っていない言葉なんじゃないのか、と思った。「日常的な」という意味らしく、英語学関連もちょっと出てきた。

 さて、とりとめもなく話し続けられるだけの教養があるというのはとてもすばらしいことだ。私は極度の話下手である。それは根本的に話すことを自分の中に持っていないからである。加えて最近は固有名詞が出てこないという、ボケが進行していきている。

 第7講の「エクリチュール文化資本」の階層社会の話が面白かったので、『日本辺境論』も読みたかったのだが、書店には在庫がなかった。この本だけでは特に新しいことはないようだ。本人もあとがきでそう書いている。大学生向けの講義なので入門といったところだろうか。